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野球の神様

 野球の神様は、時として人知れず舞い降りる。大正九年(一九二0)四月三日、門屋盛一は丹那トンネルの崩落現場の向こう側にいた。崩落したトンネル内に閉じ込められて、すでに三日が経とうしていた。自らの死は、覚悟していた。門屋は、若くして事業に失敗し多額の借金を抱え、その返済のために鉄道工業会社に勤めることになった。弟の岡本忠夫・貞一も故郷を離れ、兄と同じ会社に勤めていた。休日で暇を持て余していた弟たちが、坑内見廻りに付いて行く、と言ったが「休日は身体を休ませなければならない」とたしなめた。せめてもの救いは、二人の弟を事故に巻き込まずにすんだことだった。
 それから五日後の四月九日未明、門屋盛一ほか十七名は奇跡的に救出された。門屋盛一、この時二十六歳、後に昭和六年に地元大分の梅林組の土木主任から昭和十二年、星野組の取締役となり、昭和二十一年に星野組社長となる。長兄が母の実家の門屋家を継いだため、岡本家の跡取りとなった次男の岡本忠夫、この時二十一歳、後の星野組監査役、別府の日名子旅館の社長となる。星野組は戦時中、佐世保の海軍の仕事を中心に成長する。戦後、占領軍のキャンプ工事で活況に沸く別府に進出した。別府の営業所に作った野球チームが、後の別府星野組である。
 この丹那トンネルの事故があった同じ大正九年の四月二十五日、西本幸雄は和歌山市に西本家の五人兄弟の末っ子として誕生した。後に和歌山中学を経て立教に入学した。昭和十七年、監督制をとっていなかった立教の主将兼監督となった。秋のリーグ戦では早稲田に敗れて順位は二位。トーナメントの明治神宮大会では宿敵早稲田を破り優勝した。西本は自分の野球理論には、少なからず自信を持ち始めていた。しかし、翌昭和十八年の春のリーグ戦から戦争により大学野球はついに中止となり、十月には繰り上げ卒業となったしまった。次の立大の主将となったのは永利勇吉である。
 西本と同じ年に生まれた一年浪人して慶応に入学した別当薫は、昭和十八年十月二十一日、神宮外苑競技場で行われた学徒出陣の壮行会に参加した。戦後、復学した別当は神宮のスター選手となった。しかし、繰り上げ卒業である西本には、もしや戦争が終わっても復学する希望もない。「野球は、これで終わりだ」と考えて、普通にサラリーマンになるつもりだった。先輩の紹介で神戸製鋼に入るつもりが空きなく、先輩マネージャーの田村の紹介で子会社の東洋金属に入社した。「どうせ軍隊に入るまでの会社勤めだ」とは思ったが、実際三ヶ月ばかりの東京出張所でのサラリーマン生活だった。十二月には徴兵されて入隊した。戦後、復員しいくつかの職を経て後輩の永利勇吉の誘いで、別府星野組に入るとは思いもよらなかった。
 昭和十二年、十九歳の長澤正二(まさじ)と二十八歳の大塚文雄は、茨城県の日立市から九州へ向かう汽車の中にいた。長澤は大分商業を卒業し、門司鉄道管理局に入社した。しかし、まだレギュラーを獲得したわけではなく、国鉄職員の給与は低くかった。そこに日鉱日立の監督が、わざわざ北九州までスカウトに来た。「親と会社の承諾を得ている」と言われて、誘われるままに寮に帰って荷物をまとめる事もなく日立に旅立った。九州の方では失踪扱いで大騒ぎなっていたが、本人は九州での騒ぎなどはまったく知らないまま数週間を過ごしていた。
 日立での生活も落ち着き、正式に新しい就職先で辞令をもらい日鉱日立の選手として試合にも出場していた。ある日、試合が終わり水戸駅で警察官に呼び止められる。派出所に連れて行かれると大商のコーチだった大塚文雄がいる。確かに大商の先輩だが、大塚文雄は、大分鉄道管理局に勤務して、同じ国鉄でも直接の関係はない。いぶかしげに思ったが、大塚文雄は「俺は門鉄と関係なく親に頼まれて来た。一度、大分に帰って親に説明しろ」と長沢を執拗に説得した。結局、根負けして九州へ帰省する汽車の中に乗ることになってしまう。
 大塚は「門鉄には関係ない」とは言っていたが、下関に着くと井野川監督ほか野球部の幹部が迎えに来ていた。翌日には大分に帰って親に会って新しい就職先の話をするつもりだった。しかし「明日、試合があるが内野のショートがいない。出ないか?」という誘いの言葉に乗って、試合に出たらヒットを三本打った。気がついたら親への転職の報告などもみ消されてしまっていた。
 それから十年後の昭和二十二年、大塚文雄は別府星野組硬式野球部の初代監督に就任する。監督に就任して最初の大仕事が、大分鉄道管理局に転勤してきた長澤正二を星野組にスカウトすることになるとは思ってもいなかった。
 長澤正二が日立から連れ戻された同じ昭和十二年の六月十日、別府市北浜に七人兄弟の末っ子として一人の男の子が生まれる。彼が小学校六年生の時、別府星野組が都市対抗で全国優勝する。エースの荒巻淳は、少年の憧れだった。少年は野球にのめり込み、中学校でも野球部に入部する。高校野球を目指すが、家庭の経済的な問題で進学が難しかった。恩師の助力でなんとか別府緑ヶ丘の進学が決まった。当時、別府緑ヶ丘高校の野球部の指導を手伝っていた大塚文雄は、この少年を自宅に下宿させることになる。少年の名は稲尾和久、後の西鉄のエースである。
 昭和二十二年の九月、三十歳の今久留主淳(すなお)は、二十六歳の四男・功と二十一歳の五男・逸夫(いつお)、高等女学校を出たばかりで結婚した妻・綾子を連れて鹿児島を出発して京都に向かった。戦後、台湾から引揚げ台南州庁勤務時代の先輩の有村増蔵に誘われて、薩摩木材に入社した。昭和二十一年の秋には、軟式ながら国体の予選にも出場した。しかし、引揚げてきてバラックのような家に、両親含めて十三人が暮らしていた。しかもその家が火事に遭い、父は大やけどを負って臥せっている。長男はすでに東京で教職についている。実家は町役場に勤務する次兄に任せて、生活のために、妻と弟二人を連れて京都に向かった。
 当時、京都にプロ球団を作ろうとして中島正明(関学中~立教大学~毎日新聞記者~近鉄スカウト部長)が選手集めに走り回っていた。今久留主夫妻とその弟たちは、京都に向かう。中島正明は、西本が立教在学中の野球部のチーフマネージャーだった。西本幸雄も選手候補として京都で衣食させてもらっていた。しかしチームは出来ないまま、今久留主夫妻とその弟たちは、京都に一カ月いただけで放り出されてしまう。
 とりあえず妻と弟二人は先に鹿児島に帰した。鹿児島までの切符を買って、悄然としたまま汽車に乗っていたが、ふと台南州庁時代の先輩・山内正三が別府星野組のマネージャーをしていたことを思い出した。別府に行くと淳・功・逸夫の三人兄弟揃っての採用が決まった。翌23年、同じ京都の「幻のプロ球団」にいた西本幸雄が、星野組に入ってくるとは思ってもみなかった。
 西本幸雄は、後に別府星野組を経て、毎日オリオンズに入団、大毎の監督を務め、阪急の監督となった。阪急を辞めた後、後輩の中島正明に声をかけた。
 「俺を要らぬか?」
 近鉄監督・西本幸雄の誕生である。
by ya1go | 2006-03-13 20:25


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